昭和36年卒
太田國廣
洋画家
一般社団法人新日本美術院理事長
絵はひとりで描くものじゃない。
美術部に、柔道部に。いろいろなことをバランスよくできた3年間
質実剛健の校風で進学校。それに、家からも、繁華街である新宿からも近い(笑)立地の良さもあり、海城を志望しました。
高校入学は昭和33年。終戦から13年ほど経っていましたが、担任の田中先生は軍服を着ていらして、本当におっかなくてね(笑)。後々になって、生徒のことを考えてくれるいい先生だとわかるのですが、学内では有名な存在でした。そういう厳しい先生もいれば、やわらかい先生、ユニークな先生もいらして。先生方からは“日本のエリート”を育てようという気概を感じましたね。進学校として飛躍させようと、努力されていたのではないかと思います。
学校生活で印象に残っているのは部活動ですね。小さいころから絵を描くのが好きで、コンクールで賞を取ったこともあり、美術部に。また、中学から柔道もやっていたので、柔道部にも入部しました。初めのうちは二足のわらじを履いていたのですが、だんだんと柔道部がきつくなってしまって。同学年に強いヤツがいて、バンバン投げられたんですよ(笑)。それで嫌になってしまって、だんだんと足が遠のいてしまいました。
美術部では、デッサンをやったりと楽しかったですね。同じクラスに何人か美術部員がいて、絵が好きだという同じ想いを持った友人と、同じ時を過ごせたというのも大きかった。思い出深いのは体育祭。5メートルくらいの大きさの応援パネルをつくるのが伝統で。美術部員が駆り出されるのですが、みんなで協力して、古代ローマのジュリアス・シーザーを描きました。なかなかかっこよく仕上がったのを覚えています。
勉強だけでなく、いろいろなことにバランスよく取り組むことができた3年間でした。周りのみんなも、いろんなヤツがいましたけど、それぞれの意志にしたがって、やりたいことをやっていた。規則は守りつつ、それに縛られない。海城には、そんな自由がありました。
自分のバックボーンを持てたという誇り
大学進学にあたり、将来のことを考え始めました。絵はやっぱり職業にはならない。でも、何かをつくり出す仕事、例えば出版社とか、そういった方向に進めればいいと思っていました。それに、普通じゃつまらない、何か変わったことを学んでみたいということもあり、上智大学のドイツ哲学科へ進学。大学入学後も美術部に入り、絵は描き続けました。
ところが、大学3年生のころ、なんとなく大学で学ぶ目的を見失ってしまい…。そんなときに、海城の美術部で一緒だった友人に会いました。彼は東京芸術大学を目指して、専門学校に通っていました。そこに連れられて、ヌードデッサンをしているところを見学させてもらったのですが、その光景にビックリしましたね。ああ、すごいな。こんな世界があるのかと。その後、私は大学を辞め、同じ専門学校へ通うことにしました。親には怒られましたけどね(笑)。そこからは、なにか導かれるように芸大に進学し、気がついたら絵描きの卵になっていた、そんな印象です。
絵を本格的に描き始めてから、自分のスタイルを模索する日々が続きました。絵というと一人で描いていると思われがちですが、そうじゃない。いろいろな人や絵画から学びました。特に憧れて師事したのが、小磯良平先生。学生のころから、絵画の世界で大家と言われるような方に、学べたのは大きかったですね。でも、影響を受けて同じような絵を描いていたらダメ。取るところを取って、自分なりのものを出していかないと。
このように試行錯誤を繰り返しでしたが、絵を描くことが嫌になってしまうことはありませんでした。ただ、仕方なく描くことはありましたね。アルバイトにかまけて、気がつけば1、2カ月も描いていない。そんなときは「俺は絵描きなんだから、こんなんじゃダメじゃないか」と自分自身に言い聞かせて。何のために生きているのか。そう自問自答を繰り返しました。そうした末に完成したのが『ワンダーランド 母子』(1982)。自分のスタイルができあがった、先が見えたと思えた作品です。この作品は、昨年、海城学園の創立125周年を記念して寄贈しました。
絵は、直接的な意味では社会に貢献できない。何かを伝えて、何らかの効果があったり、利益が上がるわけではないですから。絵描きはいなくても世の中は成り立つと思うんです。でも、太平洋戦争の真っただ中でも、絵が好きな人は描いていた。ほんの一握りだけれども。絵とは本来そういうものですよ。だから、逆に言うと良いんです。自分の楽しみだけで生きていける。今になってわかってきたのですが、優柔不断で目的が決まらなかったとき、私は、生活の基盤となるものの中に、こういうものがあって生きていけたらいいなという自分のバックボーンみたいなものを求めていたんじゃないかな。それを持てたことは、自分にとって誇らしい気がしています。
人から言われたことは何でもやってみる
海城生には、一流になる努力をしてほしいですね。なれるかどうかではなく、努力を続けることが、自分の力になる。何か困難にぶつかったときに、そういう努力を重ねた人は生きるエネルギーがわいてくるんじゃないかな、知らず知らずのうちに。それから、人に言われたこと、自分が思ったことは何でもやってみる。「俺はそれ嫌いだから」と端から言うのではなく、反抗してもいいから、やる気持ちは持ってほしい。それが一番重要。まず、自分の中に受け止めて、それで出す。絵もそういうところがあるんですよ。見たことをそのまま描くのではなく、描く前に自分の中に入れて、解釈をして出すという行為が必要。だから、写真を見て、そっくり描くのも実力だけど、それじゃあ足りない。写真以上にするのはむずかしいことなんです。僕の絵描きとしての礎は、それぞれの意志を尊重し、感化され、そして、自分の意志にしたがうことのできた海城での3年間で培われたのかもしれません。海城生もこの環境の中で大いにがんばってもらいたいですね。
太田 國廣
洋画家
一般社団法人新日本美術院理事長